父が亡くなった時、私は長男として喪主を務めることになりました。悲しむ暇もなく、葬儀社との打ち合わせ、親戚への連絡、手続き書類の準備と、用意すべき「もの」に追われる日々が始まりました。リストを作り、一つ一つチェックを入れ、物理的な準備は滞りなく進んでいきました。しかし、通夜の前夜、ふと一人になった時、私の心は言いようのない不安に襲われました。そうだ、一番大切なものを、私はまだ何も用意できていない。それは、喪主として述べる「挨拶」の言葉でした。何を話せばいいのか、全く思い浮かびません。父への感謝、参列者へのお礼、それらをどのような言葉で紡げば良いのか。慌ててインターネットで文例を探しましたが、どれも借り物の言葉のようで、心に響きません。その時、母が静かに私の部屋に入ってきて、「お父さんの好きだったところを、三つだけ話してあげたらどう?」と言いました。その一言で、私の目の前の霧が晴れたような気がしました。不器用だけど優しかったこと、休日はいつも一緒に遊んでくれたこと、私が悩んでいる時には黙って背中を押してくれたこと。父との思い出が次々と蘇り、涙と共に、伝えたい言葉が溢れてきました。私は、それを拙いながらも一枚の便箋に書き留めました。翌日の通夜、そして告別式。私はその便箋を胸ポケットに忍ばせ、弔問客一人ひとりの顔を見ながら、自分の言葉で父への感謝を伝えました。決して流暢な挨拶ではありませんでしたが、参列してくれた友人から「お父さんの人柄が伝わる、良い挨拶だったよ」と言ってもらえた時、心から救われた気持ちになりました。この経験を通じて、私は葬儀で本当に用意すべきものは、物だけではないのだと痛感しました。死亡診断書や遺影写真、喪服や香典。それらはもちろん不可欠です。しかし、それ以上に大切なのは、故人と過ごした時間を振り返り、感謝の気持ちを自分の言葉として用意しておくこと。そして、深い悲しみの中でも、参列してくださる方々へ誠意を尽くそうとする「心構え」を用意しておくこと。目には見えないけれど、この二つの準備こそが、後悔のないお別れのために、何よりも必要なものなのだと、父が最後に教えてくれた気がします。