父が亡くなり、通夜と告別式が嵐のように過ぎ去っていきました。喪主として、ただ目の前のことをこなすのに必死だった二日間。すべてが終わり、自宅に戻って一人になった時、深い疲労感と共に、ある種の虚無感が私を襲いました。そして、次に何をすべきかを考えた時、頭に浮かんだのは、お世話になった方々へ葬儀が終わったことを報告しなければならない、という義務感でした。しかし、スマートフォンの連絡先を眺めながら、私は途方に暮れていました。何と言えばいいのだろう。「父の葬儀が終わりました」。あまりに直接的で、無機質に響きます。「無事に終わりました」。何が「無事」なのだろうか、父はもういないのに。言葉が、全く見つからないのです。悲しいとか、寂しいとか、感謝しているとか、様々な感情が渦巻いているのに、それを表現する適切な言葉が出てこない。その時、ふと葬儀社の担当者の方が使っていた「滞りなく、相済ませました」というフレーズを思い出しました。不思議な言葉だな、と思っていました。どこか他人行儀で、自分の感情を押し殺しているような。しかし、その時の私には、その言葉が唯一の救いのように思えました。自分の生々しい感情をそのままぶつけるのではなく、「滞りなく相済ませました」という定型句の器に、言葉にならない想いをそっと流し込む。そうすることで、私は自分の心を守りながら、社会的な役割を果たすことができる。そう感じたのです。私は、父の親友だった方へ、震える指でメッセージを打ちました。「ご心配をおかけしました。本日、父の葬儀を滞りなく相済ませることができました。生前は本当にお世話になりました」。それは、私の心からの言葉でした。あの時、私は言葉の持つ力を改めて知りました。言葉は、感情を表現する道具であると同時に、時には感情の波から身を守るための、堅牢なシェルターにもなるのだと。葬儀を終えたことを伝える、あの一見形式的な言葉たちは、きっと、私と同じように言葉を失った多くの人々を、これまで静かに支えてきたのだろうと思います。