父が病院で息を引き取った時、私の頭の中は真っ白でした。現実感がなく、ただただ涙が溢れるばかり。葬儀社の担当者の方が淡々と手続きを進めていくのを、まるで他人事のように眺めていました。自宅に連れ帰られた父は、白い布をかけられ、静かに横たわっていました。しかし、その顔は闘病の疲れからか、少し険しく見えました。そんな中、通夜の前日に行われたのが「納棺の儀」でした。正直なところ、私はその儀式にあまり乗り気ではありませんでした。父の亡くなった姿にこれ以上向き合うのが怖かったのです。しかし、母に促されるまま、リビングに集まりました。やってきたのは、納棺師と呼ばれる二人の専門家でした。彼らは物静かで、しかし凛とした佇まいで、一つ一つの動作に無駄がありませんでした。まず行われたのは湯灌の儀です。リビングに運び込まれた専用の浴槽にお湯が張られ、私たちは父の体を支えながら、その湯船へと移しました。納棺師の方が、まるで生きている人間に語りかけるように「お父様、お背中を流しますね」と優しく声をかけながら、丁寧に体を洗っていきます。その所作の美しさに、私はいつしか恐怖心を忘れ、見入っていました。母も、私も、妹も、納棺師の方に促されて、父の手や足をそっと洗いました。久しぶりに触れた父の体は冷たかったけれど、その感触は確かに、私が知っている父のものでした。体を清め、新しい浴衣に着替えさせてもらった父の顔は、病院で見た時よりもずっと穏やかに見えました。次に、死化粧が施されました。髪をとかし、薄く顔色が整えられていくと、父の表情はまるで眠っているかのように安らかに変わっていきました。険しさは消え、生前の優しい父の面影がはっきりとそこにありました。最後に、私たち家族の手で、父を白い棺へとそっと寝かせました。父が好きだった本と、私たち家族が書いた手紙を胸元に置き、蓋を閉じる直前、母が「お父さん、ありがとうね」と囁きながら父の頬を撫でました。その時、私の心の中にあった靄のようなものが、すっと晴れていくのを感じました。納棺の儀は、単なる作業ではありませんでした。それは、私たち家族が父の死と正面から向き合い、感謝を伝え、そして父の旅立ちを心を込めて手伝うための、かけがえのない時間でした。あの穏やかな父の寝顔は、今も私の心の中で、温かい光として灯り続けています。
父の旅支度を整えた忘れられない時間